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ストーリー2:若者の個を大切にする生き方と社会参画CONCEPT

 若者文化研究所 西村美東士


個を大切にする生き方を守るために

自己決定が迫られ、責任が自分に戻ってきてしまう個人化社会。 個人化社会は時代の必然だ。 評論家は「個人化がいけない」という。 しかし、若者は、その個人化社会の中で生きていかなければならない。 個人化のなかで「幸せに生きる」方法を身につけようとしている。 唯一の自己にこだわらず、自己を「多元化」することも、その一つだ。 ただし、いずれにせよ、そこでは、自己決定力を養う必要がある。



表紙
僕たちの前途

 「自分が悪かったんでしょ」と言われる個人化社会の「再帰性」の地獄をスルーする生き方から、「再帰性」を受けて立つ自己決定、自己責任の生き方に転換することにより、真の成長と充実がある。


 社会的にコントロールされたことでも、失敗すれば、個人化社会では、結局、「自分が悪かったんでしょ」と言われてしまう。これを再帰性とよんで、通常の論者からは絶望的な事項かのように取り扱われている。これに対して古市は、そこに猛烈に立ち向かわないことによって、若者は絶望からくぐり抜けていると言う、
 さて、教育はどうすればよいのか。個人化の進展は、若者にとって時代の必然である。だとしたら、そのなかで充実して生きられるよう、個人の社会化と個人化を一体的に支援することによって、「ほどほど」などではなく、職場、家庭、社会地域の一員として充実した生涯を送れるよう支援したい。
 この本では、猛烈とは一線を画す起業家たちが登場する。古市自身も社員3人のITベンチャーの一員だが、儲かっても上場しない、社員も増やさない、同じマンションに住み、会社はファミリーのような存在という。切磋琢磨よりは共存と「つながり感覚」を大切にし、無傷で働こうとするいまの若者を彷彿とさせる。
 古市は、起業を勧めようとしない。最終章近くでは、「自由格差社会」という言葉を提起する。ビザなしでも多くの国に自由に行ける、でも、帰ってこれなくなっても「それも自由だ」と揶揄する。評者のまわりにも「めんどうだから海外旅行はしたくない」という若者が増えているのも頷ける。今や、自由は、手放しで喜べることではない。起業の規制緩和に対しても同様なのだろう。
 社会学では、同様に、個人の自由な選択に責任が帰せられる個人化のマイナス面を強調する。しかし、若手社会学者である古市は、「どうせお金を稼ぐなら、好きな人と好きなことをやっていたい」、「社会を変えたいなんてだいそれた気持ちはない」と言う。社会に猛烈に立ち向かわないことによって、彼は「個人化の罠」からくぐり抜けてきたといえる。
 さて、教育においては、「自由格差社会」のなか、どのように若者の労働観を育てるのか。「猛烈に自己決定で生きよ」というのか、それとも「自分らしさを大切にするためには、くぐり抜けよ」というのか。評者は、理想追求の教育においては、そのどちらでもなく、青少年の個人化のプラスの側面を伸ばしつつ、私生活を大切にしながら、職場や地域では、他者と切磋琢磨し、支え合う人材を育成することが可能と考える。
【参考】西村美東士自著関連論文
学生の自己決定能力を高める授業方法
2000年11月ワークショップ型授業の構成要素とその効果−学生の自己決定能力を高める授業方法、『大学教育学会誌』22巻2号、pp.194-202
【要旨】2日間の「生涯学習概論」の授業で、学生がどのように自己や他者に対する気づきを得たのか、その変容の過程を解明することによって、学生の自己決定能力を高める授業の構成要素とその効果を明らかにした。第1に、ワークショップ型授業によって、即自から対自へ、対自から対他者へと学生の気づきが促され、対他者から再び対自や即自のより深い気づきへと循環する過程が明らかになった。第2は、学生の自己決定能力の到達段階の把握に基づく戦略的な指導内容と授業構成の必要性が明らかになった。


表紙
NHK中学生・高校生の生活と意識調査2012−失われた20年が生んだ“幸せ”な十代

「とても幸せだ」(中学生55%、高校生42%)とする生徒が、この10年で過去最高の増加率を示した。勉強へのモチベーションも向上した。同書で、古市憲寿氏は、ゆとり教育の成果と評価し、「こんなに願い通りにいい子に育っているのに、政治家は教育に対して何をしたいのか」と述べる。

自分の十代の頃の授業と自分を思い出して生徒を理解しようとすることは、間違ってはいない。青年期特有の不変の課題は共通しているからである。しかし同時に、今の十代の変化を見ておく必要がある。この調査は、「荒れる学校」が社会問題になった82年から、87年、92年、02年と行われてきた。
 「とても幸せだ」(中学生55%、高校生42%)とする生徒が、この10年で過去最高の増加率を示した。勉強へのモチベーションも向上した。同書で、古市憲寿氏は、ゆとり教育の成果と評価し、「こんなに願い通りにいい子に育っているのに、政治家は教育に対して何をしたいのか」と述べる。同時に、今後「失われた20年」のフリーターたちが親世代になったとき、このようにうまくはいかないと予想している。
 古市氏は、「スクールカースト」の下位にあっても「下は下で友だちもいるし、そこそこ満足している」と社会学の立場から分析する。しかし、教育学の立場からは、このような「幸せ」に対峙して、「支持的風土の幸せ」を示さなければならない。また、「いい子であるだけでは幸せにはなれない」社会に出ていき、幸せな生涯を過ごすためには、社会のなかで自己発揮するための自我の確立と社会での位置決めを支援する必要がある。
 「思い切り暴れ回りたい」を「まったくない」とする回答が82年19%から、12年69%にまで増加した。親にも反抗せず、仲がよい。80年代に「荒れる学校」で育った教師は、このような「多数派生徒」の良さを生かしつつ、小さくまとまらせずに育てることを考えなければならない。

表紙
ヤンキー化する日本

「高尚な芸術」に対するバッドセンス、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観が融合したひとつの文化であると述べる。コミュニケーションも、お笑い芸人のように達者で、自信をもって生きている。そして、「誰の心にもヤンキーはいる」とし、現代は、ヤンキー文化のエッセンスが広く拡散した時代であり、むしろ自明すぎて見えなくなっている。

 ヤンキーとは米国人の俗称で、戦後は、米国の若者の風俗をまねる「不良青少年」を指していた。そのため、以前は、学校を荒らす「敵」だった。しかし、思春期・青年期の精神病理学を専門とする斎藤氏は、今の「ヤンキー」について、「高尚な芸術」に対するバッドセンス、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観が融合したひとつの文化であると述べる。コミュニケーションも、お笑い芸人のように達者で、自信をもって生きている。そして、「誰の心にもヤンキーはいる」とし、現代は、ヤンキー文化のエッセンスが広く拡散した時代であり、むしろ自明すぎて見えなくなっていると指摘する。
 対談のなかで、氏は、各地の学校で取り上げられているよさこいソーランなどのヤンキーっぽさにふれ、また、スパルタ教育、金八先生やヤンキー先生、「GTO」や「ごくせん」などのメディアによる反知性主義の流れを指摘する。「理屈をこねていてもしょうがない」、「とにかく真心と誠実さで当たっていけば人は変わる」、そして「理論は熱の前に敗れ去る」という前提を批判する。
 しかし、氏は、非行はともかくヤンキー性は更生させる必要はないという。ヤンキーを突き詰めていくと、絆や協調性に傾き、まとまりをつくるのに役立つと言う。同時に、「公共」概念とセットで「個人主義」を再インストールするよう提言する。
 ヒップホップの裏には黒人の歴史があり、よさこいの裏にはまちづくりがある。医療としてはともかく、教育においては、社会形成者の育成のための目標に沿って、「科学的な見方・考え方」や自己との対話の方法論を彼らに教える役割がある。そのことによって、彼らは、より根拠ある自信を持つことができよう。


表紙
「若者」とは誰か:アイデンティティの30年

こぢんまりとまとまってしまうのでは、望ましい統合とは呼べない。たくさんの個性の「かけら」(多元的自己)は、多様な状況において、多様な箇所を光らせたいし、成長させていきたい。また、教師は多様な友達と接するときの「多元的自己」とは異なる、ワンオブゼムとは異なる、異質の他者としての役割を発揮するものでありたい。そうすれば、「多元的自己」を説明する「統合的自己」の確立も可能になるかもしれない。

 教育は若者の「自分探しの旅」を支援(1996年中教審)し、彼らのアイデンティティ(自己同一性)の確立をめざす。しかし、浅野氏は、自らの青少年研究会の調査データ等に基づき、状況に応じて変化する「多元的自己」の拡大の事実を示す。その上で、これを従来の知見のように問題視するのではなく、多元的自己であっても、より生きやすい生き方や社会のために生かすことこそ重要という。
 「ゆとり教育」でいわれる「個性」については、学力低下批判の嵐に出会い、成績のよい子は「能力を徹底的に磨くこと」、よくない子は「成績競争から降りること」の二重の意味を持つようになったと浅野氏は指摘する。その上で、「自己の多元化は、一つの個性への過度の依存によるリスクを低減させる」と、両方の若者に手を差し伸べようとする。
 評者も、生徒の現在の個性を狭く固定的にとらえるとしたら、教師にも生徒にもよくないと考える。こぢんまりとまとまってしまうのでは、望ましい統合とは呼べないだろう。たくさんの個性の「かけら」は、多様な状況において、多様な箇所を光らせたいし、成長させていきたい。
 また、生徒に友達感覚で接してもらおうとする教師がいるとしたら、それは現実的ではないといえる。むしろ、多様な友達と接するときの「多元的自己」とは異なる「支援者に対する作法」を学ばせたい。異議申立もあってよいだろう。そうすれば、「多元的自己」を説明する「統合的自己」の確立も可能になるかもしれない。教育においては、このようにして、生徒の自己内対話を深め、「自分とは何か」の追究を支援すべきと考える。


表紙
不透明社会の中の若者たち−大学生調査25年から見る過去・現在・未来

 「不透明社会」において、明るい未来をまったく期待できない若者たちが、未来のために努力するより現状を楽しみたいという志向性を持つのは当然だという他の社会学者の見解に対して、氏は「それでも、彼らはこの不透明な道を歩いていかなければならない」と指摘する。卒業後も不透明社会を生きていく生徒に対して、「学校で友達といる今が楽しい」だけでなく、予測がつきにくい社会の中であっても自己の位置決めをして卒業していけるよう支援する必要がある


 片桐氏は、若者が「新人類」と呼ばれていた頃の1987年から、「ゆとり教育世代」の2012年まで、5年おきに大学生調査を行ってきた。本書では、おもに関西4大学文系学生652人に対して実施した2012年調査結果を分析している。
 性別役割については、結婚したら妻が夫の名字を名乗ったほうがよい、家事育児は女性のほうが向いている、「公平に分担する」より「夫もできるだけ協力」、出産したら仕事をやめる、男らしい・女らしいと言われたら嬉しいなど、保守的傾向が見られた。親子関係については、親のようになりたい、子どものままでいたいなど、反抗期なき若者という傾向が見られた。友人関係では、とくに女子学生の場合は、協調性が重視され、目につきやすい場面で一人でいることのマイナスイメージが大きいなどについて、片桐氏は「つながり世代」の特徴ととらえる。情報源としては新聞、パソコンが減り、スマホが急増した。社会意識としては、とくに戦争の不安について、核戦争が起きる、戦争に巻き込まれるなどとする学生が減った。電車やバスで席を譲る、地域行事に参加しているなどが増えたが、社会運動への参加意欲は減った。氏は、これを「やさしさ世代」の特徴ととらえる。政治意識については、福祉社会よりも、競争社会、統制社会を理想の社会とする学生が増えた。自衛隊の海外派遣、天皇制男性優先継承に賛成、日の丸への愛着心が増えた。生き方としては、生活満足度が向上し、生活目標としては、この十年で「豊かな生活」が減り、「なごやかな毎日」「自由に楽しく」が増えた。「転職はなるべくすべきではない」も増えた。出世意欲が減少し、女子はこの十年で「気楽な地位にいたい」が増え、男子は今回、「遊んで暮らしたい」が急増した。氏はこれを「不透明社会の中のゆとり世代の生き方選択」の特徴ととらえる。
 「不透明社会」において、明るい未来をまったく期待できない若者たちが、未来のために努力するより現状を楽しみたいという志向性を持つのは当然だという他の社会学者の見解に対して、氏は「それでも、彼らはこの不透明な道を歩いていかなければならない」と指摘する。卒業後も不透明社会を生きていく生徒に対して、「学校で友達といる今が楽しい」だけでなく、予測がつきにくい社会の中であっても自己の位置決めをして卒業していけるよう支援する必要があると評者は考える。


表紙

 女子力男子−女子力を身につけた男子が新しい市場を創り出す

 本書は、次のように述べている。「減少する労働人口を確保するために、とにかく女性を男性と同じように働かせる」ということだけを目標とする右へならえの画一的な発想や号令ではなく、個々人が自分の本当の幸せを見つめ、それに沿った働き方を様々なチョイスの中から選択でき、専業主婦も専業主夫も、バリバリのキャリア女子も男子もいて良い世の中。今、日本社会に最も必要なことは、すべての当たり前から解き放たれることという。


 原田氏は、マーケティングの視点から、「若者の消費離れ」説を疑えと述べる。最近の若年男性が「元気がない」「なよなよしている」と言われる原因は「女子力」を身につけた急激な変化の結果だという。もはや「男らしく」という言葉は通用せず、思い思いに料理、美容やダイエットに関心を持ち流行にも敏感、そんな「女子力男子」が台頭しているというのだ。そして、この動向は、わが国の中高年やアジアの国々にも広まるだろうと分析する。
 氏は、「自己満足/他者の目を意識」「ライフスタイル/美」の2軸による4象限で女子力男子を分類する。とくに「ライフスタイル×自己満足」については、企業にとって市場拡大の可能性が大きいという。その分類にリストアップされているのは、ぬいぐるみ収集、男子会で手作り料理、女子会に溶け込んでトーク、母親と仲良し、少女漫画好きの男子たちである。
 後書きでは、次のように述べている。「減少する労働人口を確保するために、とにかく女性を男性と同じように働かせる」ということだけを目標とする右へならえの画一的な発想や号令ではなく、個々人が自分の本当の幸せを見つめ、それに沿った働き方を様々なチョイスの中から選択でき、専業主婦も専業主夫も、バリバリのキャリア女子も男子もいて良い世の中。今、日本社会に最も必要なことは、すべての当たり前から解き放たれることという。
 学校教育においても、マーケティングの視点に習い、このような若者の実態や変化に対応する必要があるだろう。同時に、評者は、彼らの社会生活の充実につながるようにするために、従来の価値の伝承とともに、今の若者の各ライフスタイルに共通する新しい価値をともに創造する必要があると考える。


表紙
一〇三歳になってわかったこと−人生は一人でも面白い

 「自由と個性を尊重するから孤独であり、コミュニケーションが大切」、孤立ではなく、人と交わらないのでもなく、「混じらない」「よりかからない」シングルライフに徹するという言葉は、個人化社会において社会的にも充実して生きていくために、根源的な示唆を与えてくれる。



 篠田氏は、積極的に現代の高齢期を生きる指針を示している。人生の楽しみは無尽蔵、行きたいところがあったら行く。それは、個人化社会において「自由に生きる」という指針であり、教育の社会化重視の価値観と一線を画している。
 篠田氏は、生涯一人身で、美術家団体にも属さず、墨を用いた抽象表現主義者として活躍している。非婚や無所属の自由といえるだろう。人という漢字は「人が互いに支え合っている」意味だと言われるが、古来の甲骨文字では、一人で立ち、両手を前に出して、何かを始めようとしたり、人に手を差し出して助けようとしたりしているのではないかと彼女は言う。
 歳をとると、過去を見る目に変化が生まれ、未来を見る目は少なくなり、肯定、否定の両面が生じ、あきらめと悟りが生ずる。彼女は、これを、高いところから自分を俯瞰する感覚だと言う。今の「悟り世代」といわれる若者の感覚と通じるものがありそうだが、若者の「悟り」に欠けているものを彼女から学ぶ必要があろう。


表紙
いつまでも会社があると思うなよ!

 他者との対立や私生活への犠牲を避けようとする今の若者を、流動化社会の中でどう育てるか。川島氏は、社員を育てる「イクボス」が必要だと言う。それは、部下の私生活に配慮しながら、業績目標を達成させるという「新しい管理職像」である。その要件は「部下の私生活とキャリアを応援している」「自らも仕事と私生活を両立させている」「業績目標の達成に強くコミットしている」の3つである。氏は、仕事(ワーク)と共に、私生活(ライフ)と社会活動(ソーシャル)という「3本柱の生活」が人生を強く豊かなものにしてくれると言う。



 氏は、時間泥棒トップ3として、資料作成、メール、会議を挙げる。たとえば会議については、ゴール決め、資料の事前配布、人数絞りの3つで時間は8分の1になると言う。ただし、その生産性とは、アウトプット÷インプットであることから、分母である時間の削減幅以上に、分子である成果を収縮させないよう警告する。そのうえで、残業している社員より成果を出すよう求める。この「結果志向」が若者に支持されているようだ。
 氏が代表を務めるNPOゴヂカラ・ニッポンにおいては、苦手や弱点ではなく、得意なことに注目する。そして、社会で役に立つ経験を与えて「貢献心」を育むことによって、子どもの自主性と社会性を育てようとしている。
 評者は考える。若者の帰属意識の不足などを批判するだけでは、教育は始まらない。仕事だけでなく、私生活、社会活動のそれぞれの場で、幸せな生涯を送るための基礎・基本を、個人差に応じて身につけさせることこそ、生涯学習時代の学校教育の役割といえよう。


表紙
〈若者〉の溶解
 本書は、幸福感が極端に高いということについて、「大きな地殻変動のようなもの」を感じるとしている。幸せを感じるもとになるインフラが大きく変わって、情報環境的には、自己の欲求をいろいろと満たしながら、操作的な対人関係を築きながら、概ね「ほどはどの満足感に浸りながら」成長を遂げてきたことの証であるという。ただし、個人のレベルで目にするのは、ソフトなインターフェースの商品であっても、その背後にある巨大な複合体は、極めて激烈な競争と過酷で残酷な科学技術競争の中で生成されている。現代青年文化は、この厳しい現実に適応する最初の本格的な対応様式を築こうとしていると述べている。


 川崎氏は、「宇宙船地球号」の乗組員としての人類は、互いにかかわりを持ちながら、生活せざるを得ない状況になったとし、欧米近代の基本的価値観である「自由と独立」を守りつつ、新しい共有の文化を作り出すという課題を提示する。そして、そのためには、多層性を確保しつつ、全体としては寛容な多様性を保有するという「重複型アイデンティティ」が重要だという。これは、本書全体のトーンとしての多元的自己論(状況対応型自分らしさ)と、過去の一元的アイデンティティ論へのアンチテーゼとしての文脈とつながる主張である。
 また、若者の幸福感が極端に高いという実態については次のように述べる。幸せを感じるもとになるインフラが大きく変わって、自己の欲求をいろいろと満たしながら、操作的な対人関係を築き、概ね「ほどほどの満足感」に浸ってきた。ただし、背後には、極めて激烈な競争と過酷で残酷な競争がある。現代青年文化は、この厳しい現実に適応する最初の本格的な対応様式を築こうとしている。
 評者は考える。われわれはアイデンティティを自己同一性ととらえ、その確立を若者の自立にとっての不変の価値として教育活動を進めてきた。だが、「重複型アイデンティティ」によって現実適応しようとする若者にとって、そのような自己同一性を押し付けることは、考えてみれば残酷な話だ。価値の伝承と創造を担う教育だからこそ、実態誤認の安易な若者論に振り回されることなく、社会学等の知見を取り入れたり、対抗させたりしながら、若者の自立支援の方策を見出さなければならない。


個を発揮するための障害になるもの

自己決定が迫られ、責任が自分に戻ってきてしまう個人化社会。 ややもするとそのこと自体を望ましくないとする議論がある。 しかし、意地のある若者は、そのような考え方はしないだろう。 それよりも、自己決定や自己選択の余地が与えられないことに異議を申し立てたいのではないか。 若者の人生の選択肢を拡大すること、若者の自己決定力を養うこと、これが若者が個を発揮するための、社会の責任であると考える。
表紙
「東京」に出る若者たち−仕事・社会関係・地域間格差

夢を持って「自己決定」で東京に出てきた若者が、じつは水路づけられていて、さらには夢破れて「わがふるさと」に「追い帰される」のが、Uターン、Iターンの残酷な現状。教育においては、これに対抗して、地方の時代をどう実現するのか。

 石黒氏らは、弘前大学雇用政策研究センターが行った東北地方の若者の東京圏への移動に関する調査結果などをもとに、次のとおり指摘する。収入面では、利益を得るのは高学歴者に偏っており、地域間移動の経済的コストをクリアできる「恵まれた環境」に生まれた者が「恵まれた立場」を手に入れることができる。
 人間関係については、東京圏には、近い世代や年長の親族、既存の友人がいる。新卒採用時に県の出身者枠を設けている企業の寮に入れば、同じ高校出身の先輩が何人もいる。ローカル・トラック(水路付け)により移動先が集中している東京圏と宮城県以外で就職したとき、むしろ孤立した状況に置かれると指摘する。
 進路指導にあたって、「個性化の時代なのだから、生徒一人一人が各地の就職先、進学先に自己選択で飛び立っていくことが望ましい」とは言えないのかもしれない。
 なお、東京圏の大学に進学した者については、出身地で形成した人間関係の減少を、趣味ネットワークの拡大により補うという特徴も興味深い。そのほか、青森から東京圏に出た高卒若者に対するインタビュー結果から、労働現場が厳しく、仲間が次々と辞めて青森に戻っていくなかで残る者の苦悩が示される。逆に大卒で比較的高いスキルをもつ青森出身者が、東京圏で生業としていく過程も示される。
 これらの調査が行われたのは、東日本大震災の一ヶ月前であった。しかし、「高い能力を要求する職業も、高度な教育の機会も、大都市に集中」している現状に対して、地域間格差の是正と教育機会均等のあり方を提唱する本書の意義は、むしろ高まっているといえよう。


表紙
社会を結びなおす−教育・仕事・家族の連携へ

父の賃金→家族→子への教育費→新規労働力というサイクルが崩れた現在、著者は、次のとおり新しい社会モデルを提示する。「組織の一員としての身分を与えられる」メンバーシップ型から、「一定の熟練や専門性に基づいて遂行される、ひとまとまりの行為」としてのジョブ型正社員への移行。将来に向かって生きていくための「中間的就労」などを支援する「アクティベーション」。そして、学校の役割を、「保護者や地域に開かれた学校」、「家族へのケアの窓口」と位置づける。「社会がうまくまわらなくなった」現在、「うまくまわっていた」団塊世代とは異なる労働観を育てる必要がある。それは「社会開放型」の視点を持ったものでなければならない。
3320.html

 著者は、次のとおり社会のほころびを指摘する。規制が機能していないところにさらに「規制緩和」と「自由化」を持ち込む。資源や手段が枯渇しているところにいっそうの締めつけや精神論を持ち込む。相互に矛盾するような「改革」が、思いつきのようにばらばらと実施される。うまくいかない状況をごまかすために、社会の内外にわかりやすい「原因」や「敵」を無理矢理見つけ出して叩く。そのうっぷんを晴らそうとするようなふるまいが、「強い人」の中にも「弱い人」の中にも広がっている。
 戦後日本の二つの転機としては、石油危機とバブル崩壊を挙げ、とくに後者については、完全失業者の増大など、「底が抜けた状態」としている。それ以前の「戦後日本型循環モデル」においては、仕事・家族・教育という三つの社会領域が堅牢に結合されていたとする。教育においては、公的支出の少なさの中で、父の賃金→家族→子への教育費→新規労働力というかたちで、社会が文字通り「まわっていた」という。また、その要因としては、九五年まで巨大地震が起きなかったなどの「幸運」に恵まれたこともあると言う。
 九五年の日経連『新時代の日本的経営』は、正社員の新規採用の抑制と、多様な雇用形態の非正社員の活用による事業の維持の姿勢に「お墨付き」を与えた。これ以降、「家族を食わす」に足るだけの収入が得られない男性の非婚化が進んだという。また、余裕層の中に、不透明社会に対して過剰なほど教育熱心な親が現れた。四〇人教室に、塾で3学年も先のことを学んでいる者と、家族の困窮や不和に苦しんで学習に向かえない者がおり、この教育格差と、家庭からの期待や要求の強まりの中で、教師は疲弊しているという。
著者は、もとより少なかったセーフティネットが切り捨てられ、二〇一三年八月には、子どもがいる家庭ほど生活保護額が切り下げられたことを挙げ、「循環そのものが壊れているのに、その周囲も真空状態」と批判する。
 著者は、「じあたま」やコミュニケーション能力などの不透明な採用基準を批判し、「組織の一員としての身分を与えられる」メンバーシップ型から、「一定の熟練や専門性に基づいて遂行される、ひとまとまりの行為」としてのジョブ型正社員の実現を主張する。
 セーフティネットについては、「アクティベーション」というもう一枚の布団を敷き、将来に向かって生きていける「中間的就労」などの支援の有効性を主張する。
 著者は、以上の観点に立った仕事・家族・教育の双方向モデルと富の再分配による税収の増大を主張し、そのモデルにおいて、学校の役割を、「保護者や地域に開かれた学校」、「家族へのケアの窓口」と位置づける。
 そして、団塊世代等の多大な財力と権力を握る層の無関心と、自己責任論による自他への否定的で冷酷な視点などの障害のなか、四〇代前半以下の層の日本型循環モデルの変革に向けた行動に注目する。
 「社会がうまくまわらなくなった」時代において、どういう労働観をもった子どもたちを育てればよいのか、考え直す必要があろう。


表紙

高校生ワーキングプア−「見えない貧困」の真実

「7人に1人」の「貧困状態」の高校生にとって、生活費を稼ぐためのダブルワークは当たり前で、毎日兄弟の世話や家事をこなし、「多重債務」を背負う危険もある。そのほとんどは「家族のため」に働いており、決して後ろ向きに生きているのではない。そして、最新ファッション(じつは低価格なファストファッション)にスマートフォン(じつはライフライン)が「普通」に見させる点でも、同書は注意を促す。同書は、「見えない貧困」について、困窮度を4段階に分類し、さらには貧困研究の先進地であるイギリスで開発された「剥奪指標」(欠如した権利)を用いて、これを可視化する取り組みを紹介する。その結果、@物的資源=生活に必要な「物」、Aソーシャルキャピタル=人とのつながり、Bヒューマンキャピタル=教育や経験の3つの欠如を指摘する。

 著者は、定期試験期間中でもシフトを入れられてしまう「ブラックバイト」に対して、「自分がいないと店がまわらない」と考え、断れない責任感のあるまじめな生徒の例を挙げる。だが、学習意欲がわかないまま、定期試験のみに追い回される生徒に対しては、試験勉強にあくせくさせることよりも、たとえバイトにおいても相互受容できる関係を持ったり、社会的な広い視野からものを見たり、考えたりできるような力を育むことこそ重要であろう。

表紙
「育休世代」のジレンマー女性活用はなぜ失敗するのか?

 エリートの割には、妊娠時期については無計画で、また、結婚前に家事分担について相手と話し合いもしていない。同類婚といって、自分と同等以上の時間のない相手を選ぶが、海外出張に飛び回る夫をずるいと思ってしまう。そもそも就活中も、やりがい重視のため、復帰に不都合な職場を選んでしまっている。すべてが自己決定に帰結され、社会に対する無関与が広がるこのような状況に対して、筆者は、「既存の構造を疑い、新しい価値を生み出し、社会を変えていく人材を育てる」よう提唱する。評者は次のように考える。エリート女子といえども、一般の現代青年と共通の課題をもっている。現実社会において重要なのは、自己実現を自己内で完結させずに、他者と自己実現を互いに支え合うということである。夫ともコミュニケーションをとらなければならない。職場や地域の未来のリーダーを育てるためには、このような視点が求められる。
3390.html

 中野氏は、1999年の改正均等法以降入社の旧帝大出の一流企業総合職女子を中心に、15人のエリート女子の育休取得後の挫折を追う。彼女たちは、男並みに仕事で自己実現すること(バリキャリ)と、早めに出産して子育てするという「産め働け育てろプレッシャー」のジレンマに陥るという。「生きずらい」などと口走れば、他の女子から「あの人たちは勝ち組だから」と距離を置かれる。育休明けに復職しても、周りから「配慮され」、バリキャリの時のようには働かせてもらえない。彼女たちは、子にはお受験をさせない。自らは高い学業と社会的地位を達成しながらも、今となっては喜べないでいるのだ。
 エリートの割には、妊娠時期については無計画で、また、結婚前に家事分担について相手と話し合いもしていない。同類婚といって、自分と同等以上の時間のない相手を選ぶが、海外出張に飛び回る夫をずるいと思ってしまう。そもそも就活中も、やりがい重視のため、復帰に不都合な職場を選んでしまっている。
 すべてが自己決定に帰結され、社会に対する無関与が広がるこのような状況に対して、中野氏は、「既存の構造を疑い、新しい価値を生み出し、社会を変えていく人材を育てる」よう提唱する。
 評者は次のように考える。エリート女子といえども、一般の現代青年と共通の課題をもっている。現実社会において重要なのは、自己実現を自己内で完結させずに、他者と自己実現を互いに支え合うということである。夫ともコミュニケーションをとらなければならない。職場や地域の未来のリーダーを育てるためには、このような視点が求められる。


表紙
「就活」と日本社会―平等幻想を超えて

「自由競争」や「公平・平等」の幻想により、学生が「就活うつ」や新卒無業者に追い込まれている。現実には、高卒・大卒などの「タテの学歴」に加え、学校名などの「ヨコの学歴」による「学歴フィルター」まで存在するのに。逆に、ほとんどの学生が登録するマイナビ、リクナビなどの就職情報会社は、自由かつ大量の応募による個人間の競争を実現する。これらは努力して報われる可能性のある競争ではあるが、熾烈化して学生も企業も疲弊している。こういう状況に対して、常見氏は、スカウト型の求人サイトや、カウンセリングによって採用可能性の高い企業を学生に紹介する人材ビジネス企業に期待を寄せる。その文脈から、「競争が平等ではないことに気づき、弱者は弱者なりの生存戦略を考えよう」と提唱する。そして、「偽装された自由や平等は暴力であり、民衆を希望の奴隷にする」と締めくくる。しかし、評者は、職業、家庭、地域、社会生活という視野の広がりなくして、生涯の充実はないと考える。


 常見氏は、先行研究や関連データに基づき、次のように提言する。「自由競争」や「公平・平等」の幻想により、学生が「就活うつ」や新卒無業者に追い込まれている。現実には、高卒・大卒などの「タテの学歴」に加え、学校名などの「ヨコの学歴」による「学歴フィルター」まで存在するのに。さらに、ここの卒業生は良くないなどの、個人差を無視したラベリングも行われる。これらは努力しても報われない競争である。これに対して、ほとんどの学生が登録するマイナビ、リクナビなどの就職情報会社は、自由かつ大量の応募による個人間の競争を実現する。これらは努力して報われる可能性のある競争ではあるが、熾烈化して学生も企業も疲弊している。
 このような実態のなか、常見氏は、スカウト型の求人サイトや、カウンセリングによって採用可能性の高い企業を学生に紹介する人材ビジネス企業に期待を寄せる。その文脈から、「競争が平等ではないことに気づき、弱者は弱者なりの生存戦略を考えよう」と提唱する。そして、「偽装された自由や平等は暴力であり、民衆を希望の奴隷にする」と締めくくる。
 評者は考える。若者に希望を与えない教育など存立しえない。しかし、不平等の現実のなかで、多くの若者が苦しんでいる。われわれは有名企業への就職願望に代表されるような「希望」の質自体を考え直す必要があるのではないか。小学校でも起業家教育が始まった。また、職業、家庭、地域、社会生活という視野の広がりなくして、生涯の充実はない。その基礎づくりこそ、学歴社会から生涯学習社会への転換期における学校教育の役割に他ならない。


表紙
若年無業者白書2014-2015−個々の属性と進路決定における多面的分析

 「若者」と「働く」の問題については、感情論で処理されがちである。一人の若者がよい形で社会に(再)参入し、働いていけることは、さまざまな社会課題を構造的に解決するセンターピンであると筆者らは考えている。例えば、私たちの社会が働きたくても働けない若者に無関心であり、彼・彼女らの個人的な問題だと決めつけ続けるなら、その未来は明るいものではない。一人の若者が働くことができないままでいることと、働くことができるようになることのコストギャップは1億5000万円と試算されている。旧帝大卒で一流企業社員の経歴をもつ若年無業者も多い。過去の学校歴社会の観点のままでは、生涯にわたる個人的、社会的充実は実現できない。


 NPO法人育て上げネットが提供するサービスを受けた3384名の属性データをもとにした若年無業者の実態調査の報告書である。前白書は2013年に初めて発行された。同テーマを扱った大規模調査は、ほかには見当たらない。
 第1章「若年無業者の経歴による分析」では、選別後の2367名のデータを10代から30代までの年代で区切り、それぞれの職歴、無業期間別に分けて実態を分析している。10代については、実数が百人余りと少なく、自発的な来所も少ない。30代で「正規職で働いていたが、仕事でつまずき退職した後、次の就労に踏み出せないまま無業期間が長期化している若者」については、高学歴層が多いが、中退層も1割近くいる。正規職歴のある他の層が「PCを習いたい」を強く希望しているのに対して、「自分に合う仕事をしたい」「働ける自信をつけたい」を希望(6割強)している。性格については、「対人関係が苦手」(4割強)よりも、「よく真面目だねと言われる」「考えすぎてしまう」という回答(6割前後)が目立つ。学校では、優等生といわれた時期があったのだろうと評者は推察する。
 第2章「支援対象者とアウトカム」では、外に出て友人・知人などと接している人は進路決定できているなどの傾向が示されている。第3章「ジョブトレと地域若者サポートステーションのアウトプット比較」では、育て上げネットが柔軟に運用している有償自主事業「ジョブトレ」(それぞれの悩みや希望に応じた個別的な課題設定に基づいた、グループ行動を基本とする継続的なメニュー)と、仕様が厳格な行政連携事業「サポステ」(地域若者サポートステーション)が進路決定に及ぼす効果を比較している。その結果、限定的なデータからではあるが、有意項目のすべてにおいて「ジョブトレ」に利があることが明らかになった。本書では「サポステの支援に制約をかけている仕様書のあり方」に疑問を投げかけ、「ビハインドを持つ人へポジティブな影響を与える」ジョブトレの意義と課題を提起している。
 同ネットへの来所者のなかには、旧帝大卒で一流企業社員の経歴をもつ若年無業者も多いと聞く。評者は考える。過去の学校歴社会の観点のままでは、生徒の生涯にわたる個人的、社会的充実を保証する教育は実現できない。今日の個人化、流動化社会において、自己発揮するための「生きる力」を育てることこそ、今日の学校教育の役割というべきであろう。この本には、「自分らしく生きる」を超えて、「自分らしさを職業や社会で発揮する」ための支援目標設定のヒントが数多く隠れていると考える。


表紙
 地方暮らしの幸福と若者


 著者は、地方暮らしと若者の「不幸」につながる社会的排除のメカニズムに焦点を当てる枠組み(社会的排除モデル)と、「幸福」の可能性を捉える枠組み(社会的包摂モデル)との関係を整理する。そのうえで、「幸福」の説明モデルとして「経済的要因」と「存在論的要因(非経済的要因)」を区別する観点を示す。たとえば、実家に依存せざるをえない経済状況や閉鎖的な仲間コミュニティと、消費社会の進化やウェブ社会の成立による地元・地域つながりの強化という二面を指摘する。




 日本の若者が大都市を目指さなくなってきたと言われ、若者の地方への移住・定住を促す政策的な動きが進み、「地方暮らしの幸福」について、積極的な発信がなされているなか、筆者は、その幸福の成立条件と社会的課題を明らかにしようとする。三大都市圏を除く地方圏の内部の差異というと、都道府県間の差異や、西日本と東日本の差異等が取りざたされることが多いが、筆者はそれよりも圧倒的に「地方中枢拠点都市圏」と「条件不利地域圏」の差異の持つ意味が重要であると考え、そうした比較軸にこだわって考察を深める。
 調査地は、広島都市圏の郊外地域(安芸郡府中町)と、そこから車で一時間半ほどの中国山地の小都市(三次市)という二つの自治体で、これを「地方中枢拠点都市圏」と「条件不利地域圏」という地域区分の典型とする。量的調査では、二〇一四、一五年度の若者調査(二〇〜三〇代)、質的調査では同じく六十人程度のインタビュー調査に基づいて、「地元から押し出す力」や、地元層だけではなく転入層にも働く力としての「地域のひきつける力」がどのように機能しているかなどについて実証的に検討する。
 また、ライフスタイルの魅力に関する価値観で、「田舎志向の幸福」と「地方都市志向の幸福」の分断について次のように指摘する。一言で「地方暮らし」のライフスタイルと言っても、森林や農村の風景、あるいは古い町並みが広がる条件不利地域圏の環境と、大型ショッピングモールに象徴される生活の快適さを特徴とする地方都市中枢都市圏の環境とでは、その魅力は大きく異なる。ただし、この両者は休日生活圏において重なり合っており、条件不利地域圏に住んでいるからといって「田舎志向」であるとは限らない。
 これについて、筆者は、地方暮らしと若者の「不幸」につながる社会的排除のメカニズムに焦点を当てる枠組み(社会的排除モデル)と、「幸福」の可能性を捉える枠組み(社会的包摂モデル)との関係を整理し、そのうえで本書全体を貫く分析の方針として、「幸福」の説明モデルとして「経済的要因」と「存在論的要因(非経済的要因)」を区別する観点を示す。たとえば、実家に依存せざるをえない経済状況や閉鎖的な仲間コミュニティと、消費社会の進化やウェブ社会の成立による地元・地域つながりの強化という二面を指摘する。
 評者は考える。社会学のこのような立体的把握は、教育関係者にとって示唆に富むものである。同時に、社会学は現状変革への関心が薄い。というより、そもそもそれを目的としていない。しかし、教育は、これまでの価値の伝承とともに、新しい価値の創造を目的とする活動である。社会学のリアルな認識に習いながらも、ここで言う「地方中枢拠点都市圏」と「条件不利地域圏」の両方で「幸福につながる存在論的価値」を若者とともに創り出す必要があるといえよう。


表紙
二十一世紀の若者論−曖昧な不安を生きる

1990年代の「ロスジェネ」世代の場合、運よく正規雇用の仕事に就くことのできた者も、厳しい経済環境のなかで過大な量の業務に苦しむことになる。司法試験改革や大学院重点化によって弁護士の資格をとり、博士号をとっても生計を立てることのできない「超高学歴ワーキングプア」が多数生みたされていった。このように、自分たちは時代の犠牲者だという感覚を抱いていた。これに対して、2010年代の若者たちは、少子化のなかで大切に育てられてきた。詰め込み教育を否定する「ゆとり教育」の申し子でもある。世代の全体が苦汁をなめた「ロスジェネ」とは異なり、恵まれた若者とそうではない若者の分断がこの世代では顕著になってきている。新自由主義→規制緩和→自己決定→自己責任という個人化の流れについて、社会学からの批判は多い。そして「クールジャパン」以外はおしなべて暗い。これに対して、教育は、生徒に自己決定能力を身につけさせることによって個人と社会にとっての明るい展望を見出そうとする。それはいかにすれば可能なのか。小谷氏は、古市のシニシズム(傍観・皮肉)を批判し、若者文化に希望を見出そうとする。


 この本は、一九九〇年代からに二〇一〇年代までの若者について書かれた代表的な書物や言説を取り上げ、それらが書かれた当時の若者たちの姿と、そうした言説を産出した時代状況を抉り出す。
 第1部においては、経済の停滞と社会不安の九十年代について、代表的若者論者である宮台真司を論じる。また、酒鬼薔薇事件等については、少年犯罪の急増凶悪化は幻想に過ぎないとしつつ、死にゆく者の苦しみへの想像力を欠き、「汝殺すなかれ」という規範を簡単に踏み越える「脱社会的存在」の出現の衝撃を説く。
 二〇〇一年の小泉首相の新自由主義的改革については、「自己責任」というキーワードについて、「困難な状況に置かれたのは自分の責任なのだから、人を頼らずに自力でそれを克服しろ」という意味であるとし、弱者は同情ではなく非難と攻撃の的になったとして、次のように当時の「若者論」批判する。若者たたきは、小泉時代に猛威をふるっていた。高名な社会学者は就職しても家を出ない若者(パラサイト・シングル)の急増が、不況と非婚・晩婚化の原因となっていると断じた。学校にも通わず就職もしない、無気力な若者を指す「ニート」ということばが流行したのもこの時代のことである。「ゲーム脳」「携帯をもったサル」等のことばが示すように、ゲームや携帯電話に耽溺した結果、いまの若者は人間として劣化してしまったという疑似科学的な議論がこの時代には横行していたという。
 第2部においては、社会問題の原因を若者たちの依存的な心理に帰着させる一連の言説を「心理主義的若者論」と呼び、それらの論者が科学的方法というよりはむしろ「ライフコース規範」とも呼ぶべき「常識的知識」に依拠していたとする。
 小谷氏は、自己責任論が支配する社会において、社会的弱者は声を上げることが困難であったとしつつ、二〇〇〇年代の後半になると若者たち自身がこのジャンルに参入するようになったとする。それまでの沈黙を強いられてきた不安定就労の若者たちが、「生きさせろ!」という「声」を上げ始めたというのだ。
 第3部においては、クールジャパンについて、「ポピュラー文化の豊饒」とし、八〇年代末の幼女連続殺害事件の記憶とともに語られ、おぞましいオーラに包まれていたオタク文化が、二〇〇〇年代の半ば以降には、日本のソフトパワー(その国の魅力)の源泉とみなされるようになったという。そして、ポピュラー文化は、困難な状況に置かれた若者たちにとって生きる希望とさえなっているとする。また、中高生たちの人間関係は、アニメやマンガやテレビドラマから借用してきた「キャラ」を演じることによって成り立っているとし、ポピュラー文化は、若者たちの日常生活のあり方を規定する実在性を帯びたものになってきていると指摘する。世代とジェンダーと国籍をも超えて広がり続けるであろうオタク文化の多様性を視野に収めた研究こそが望まれるという。
 小谷氏は述べる。一九九〇年代の「ロスジェネ」世代の場合、運よく正規雇用の仕事に就くことのできた者も、厳しい経済環境のなかで過大な量の業務に苦しむことになる。司法試験改革や大学院重点化によって弁護士の資格をとり、博士号をとっても生計を立てることのできない「超高学歴ワーキングプア」が多数生みたされていった。このように、自分たちは時代の犠牲者だという感覚を抱いていた。これに対して、二〇一〇年代の若者たちは、少子化のなかで大切に育てられてきた。詰め込み教育を否定する「ゆとり教育」の申し子でもある。世代の全体が苦汁をなめた「ロスジェネ」とは異なり、恵まれた若者とそうではない若者の分断がこの世代では顕著になってきている。
 最終章において小谷敏は、二〇一〇年の若者論の「スター」となった古市憲寿を俎上に載せ、生き方は新しいが言説は保守的で古臭いという二面性がエリート中高年男性に歓迎され、彼を時代の寵児の地位に押し上げたと分析している。
 評者は考える。このように、新自由主義→規制緩和→自己決定→自己責任という個人化の流れについて、社会学からの批判は多い。そして「クールジャパン」以外はおしなべて暗い。これに対して、教育は、生徒に自己決定能力を身につけさせることによって個人と社会にとっての明るい展望を見出そうとする。それはいかにすれば可能なのか。小谷氏は、古市のシニシズム(傍観・皮肉)を批判し、若者文化に希望を見出そうとする。その希望を生み出すのは、若者と出会う社会のさまざまな教育機能にほかならないと評者は考える。


表紙
帰宅恐怖症

 本書は「夫婦関係は育て続けるもの」と助言する。その通りなのだが、評者は、それ以前に大きな障害があると感じる。夫婦間のコミュニケーションについて、ある女子学生が「なぜ女のほうから努力しなければならないのか」と私に言った。互いが「自分のほうからはどうするか考える」という前提そのものが崩れかけているのだ。教育の世界では、キャリアにおけるコミュニケーション力の育成ばかりに目が向いているようだが、個人の私生活の危機にも目を配る必要がある。


 われわれや次世代の私生活は、今後どうなるのか。同書は帰宅恐怖症の男性を次のように描写する。常に妻の顔色をうかがい、妻とのやりとりに疲れ、帰宅が億劫になり、仕事が終わっても会社に居残り、まっすぐ家に帰らず、わが家を目の前にしても近くの公園のブランコで家の灯りが消えるのを待つ。小林氏は、普通の主婦から転身して、「夫の気持ち、妻の気持ちがよくわかる夫婦問題カウンセラー」として活動している。
 同書は、それぞれ次の10タイプを指摘する。「帰宅恐怖症になりやすい」夫=気弱で優しい型、我慢型、争いごと苦手型、外面人間型、面倒くさがりや型、お子ちゃま型、父親が気が利かない方、母親がヒステリー型、母親が過干渉型、女性慣れしていない型。「夫を帰宅恐怖症させやすい」妻=しっかりした良い妻型、白黒はっきり型、せっかち型、束縛型、マイルールいっぱい型、ボス型、ヒステリー型、母親が感情的でヒステリー型、父親大好き型、男性慣れしていない型。また、体験談としては、妻が怖い夫の「上司のような妻」、夫から怖いと言われた妻の「ディベート夫婦」などの事例が紹介されている。また、「帰宅恐怖症になるメカニズム」としては、妻の「想像力」と「妄想力」、「闘うか、逃げるか」と考えてしまう夫などが挙げられる。


表紙

現代社会はどこに向かうか―高原の見晴らしを切り開くこと

 著者は、青年たちの精神の変化を追跡してきた結果を、次のようにまとめる。@「近代家族」のシステム解体と、関連して婚姻主義的な性のモラルの解体、A「生活満足感」の増大と保守化、B〈魔術的なるもの〉の再生。これらは、経済成長課題の完了、これによる合理化圧力の解除、あるいは減圧によって、一貫した理論枠組みのなかで明晰に、統合的に把握することができると言う。著者は、20世紀の悲惨な成行の根底に@否定主義、A全体主義、B手段主義を見る。そして、これに対して「新しい世界を創造する時のわれわれの実践的な公準」として、@肯定的であること、A多様であること、B現在を楽しむということの3つを挙げる。そして、「一つの細胞がまず充実すると、他の一つずつの細胞が触発されて充実する」として、最後に「今ここに一つの花が開く時、すでに世界は新しい」と謳い上げる。

 社会学者が80歳になって「短い大著」を書いた。この本の表紙には、次のように書かれている。「曲がり角に立つ現代社会は、そして人間の精神は、今後どのような方向に向かうか。私たちはこの後の時代の見晴らしを、どのように切り開くことができるか。前著から約十年、いま、新しい時代を告げる」。
 評者は考える。教育は価値創造の活動である。研究者が細分化された検証可能な知見だけを提供してくれても、それだけでは足りないことが多い。教育の現場で試行錯誤して「新しい世界」にチャレンジする必要に迫られる。このようなとき、80歳を超えた学者の思い切った「大きな見解」の提起は、教育に携わる者にとって勇気づけられる。


表紙
親から始まるひきこもり回復−心理学が導く奇跡を起こす5つのプロセス

 著者は、最初に着手すべきは就労・就学支援ではなく「何よりも先に親子関係を回復させる」ことと言う。このような親子の愛着を重視する心理学の知見に基づき、次の5つのプロセスとして、ひきこもるわが子への考え方や回復への全体像を解説する。@希望=絶望状態から、わが子の心に「希望の灯」がともるように親は一貫性を持って支える時期。A意思=ネガティブを基本とした陰陽混合する感情を親がしっかり聴き取る。B目的=心の中に湧き上がってくる「やってみたい」という欲求に基づき、少しずつチャレンジがはじまる。C有能性=実際に他者や集団の中に身をおき、勤勉に何かに取り組む自分の有能感と劣等性のバランスに直面し、葛藤する時期。Dアイデンティティ=「自分が自分で良い」そして「社会や他者からもそんな自分(あなた)で良いと思われているであろうという確信」を持つ。すなわちアイデンティティの獲得に取り組んでいく時期。本書は、そのつど生じやすい問題と具体的な取り組み方、ひきこもりの状態像、異口同音に発せられるひきこもり青年の言葉の裏側にある意味と理解の仕方などを、親が読んで理解して取り組めるように書かれている。

 “8050(ハチマルゴーマル)問題"(引きこもり当人か50代、親が80代)が深刻化している。このように、学童期から50歳までひきこもりが長引くことについて、桝田氏は「直したものはぶり返す。やすらぎの中で治ったものはぶり返さない」として、次のように述べる。「無意識で起きたひきこもり」を、わが子自身の力だけで解決するのは困難、「絶望」から「希望」やがて「自立」への道のりで貫けるものは「親の愛」のほかにない。
 桝田氏は、最初に着手すべきは就労・就学支援ではなく「何よりも先に親子関係を回復させる」ことと言う。
 本書は、そのつど生じやすい問題と具体的な取り組み方、ひきこもりの状態像、異口同音に発せられるひきこもり青年の言葉の裏側にある意味と理解の仕方などを、親が読んで理解して取り組めるように書かれている。
 評者は考える。社会の一員を育てようとする学校教育の立場からは、親子関係回復による本質的解決を望めないケースも多くあるだろう。なかには、狭い社会的視野から、社会参加の意欲もなく、世間体ばかり考えて、わが子を追い詰める親もいるだろう。親への社会教育や生徒を親から守ると言う社会的養護の視点が求められる。しかし、その際、SOSを発する生徒たちに対して、「やすらぎの中で治ったものはぶり返さない」という個人ケアの視点を忘れてはならない。


表紙
 「宿命」を生きる若者たち: 格差と幸福をつなぐもの

 近年、若者たちを取り巻く社会環境は悪化している。格差の拡大や貧困、深刻化する児童虐待…、ところが一方で、若年層における幸福感や生活満足度は、逆に高まっている。なぜか。人生を縛るものではなく、安定感を与えてくれるもの、それが現代の「宿命」観である。著者の言を借りれば、若かりし頃に成長社会を体験したベテランの教師にとって、当時の社会で培われた期待水準の高さは、たとえ社会状況が大きく変わってもなかなか拭い去ることができない。そのような中高年特有の高い期待水準を押し付けてはいけない。若者の今の強みを生かした指導こそが重要だと本書は教えてくれる。


 社会環境悪化の一方で、若者の幸福感や生活満足度は高まっている。筆者は「宿命」をキーワードに、他世代との比較、時代による社会構造等の変化もふまえてこの相反現象を解き明かす。今の四〇代以上にとって、「宿命」は自分の人生を縛り、不自由なものにする桎梏と捉えられているが、三〇代以下の人たちにとって、「宿命」とは人生を縛るものではなく、安定感を与えてくれるものであり、また、「努力」という言葉は、四〇代以上にとって、自分の能力や資質の不足分を補うための営みと捉えられるが、三〇代以下にとっては、努力できるか否かも、自分の素質の一部とみなされるようになっていると言う。
 今日の社会の成熟化においては、かつてのように超越的な目標は胸に抱きにくくなった。多くの若者たちが、内実のよく分からない異次元の目標のためではなく、その営みの過程それ自体を楽しみ、なにか別の目標を実現するためではなく、人間関係そのものを楽しむ自己充足的な人間関係を紡いでいると著者は評価する。ただし、「剥奪感さえ抱かせないような排除」が人知れず進行することについては、「認識論的誤謬」だとして、外部へと開かれたつながりのなかで、視野を広げ、格差に気づき、是正の声を上げるよう訴えている。


表紙

 どんなことからも立ち直れる人−逆境をはね返す力「レジリエンス」の獲得法

 レジリエンスのある親は、子どもが不登校になっても、「我が家が抱えている問題を眼に見える形で表現してくれたのだから良かった」ととらえると言う。同時に、子どもにとっての「愛他主義的仲間関係」の重要性を指摘する。これは、親の「利己主義的人間関係」とは異なる他者との、助け合う関係、励まし合う関係である。これが、レジリエンスのある人のライフラインとなる。青春期に愛他主義的仲間関係をもっている人は強いと著者は言う。

 著者の人生論は、1960年代から、多くの若者に生き方の指針を与えてきた。本書は、逆境での回復力を意味する「レジリエンス」について、親や教師ではなく、自らの力で獲得するものと主張する。他者から「あなたは素晴らしい」と言われて初めて「私は素晴らしい」と思える人、自分で自分の存在を確認できないで、自己同一性を他者に確認してもらうような人、他者から認められて自我の確認ができるという人は、結局は「自分自身が自分の内容となることができない」と言う。主体の成長を抜きにした安易な受容論、自己肯定論は、深い人間理解を妨げるものといえよう。  たとえば、レジリエンスのある親は、子どもが不登校になっても、「我が家が抱えている問題を眼に見える形で表現してくれたのだから良かった」ととらえると言う。同時に、子どもにとっての「愛他主義的仲間関係」の重要性を指摘する。これは、親の「利己主義的人間関係」とは異なる他者との、助け合う関係、励まし合う関係である。これが、レジリエンスのある人のライフラインとなる。青春期に愛他主義的仲間関係をもっている人は強いと著者は言う。  評者は、若者の居場所の中で、いっとき「絶望の淵」にも立ち、それでもなお真摯に生きる若者に出会ってきた。彼らは「自分自身が自分の内容となる」ための追求を続けている。そういう若者との出会いは、一般青年にとっても、通常の人間関係以上の意味をもつ。学校教育においても、愛他主義的仲間関係のある居場所において、いつもの人間関係とは異なる他者との出会いのなかで主体性を育めるよう、子どもたちを支援する必要があると考える。


サブカルチャーとオタクの可能性


ポップカルチャーが、経済界から熱いまなざしで注視されている。 しかし、若者文化の本質的理解なしには、期待と実態のギャップが大きすぎる。 本質的理解とは、若者の目線に立った理解と、人間や社会にとっての文化の意義と重要性に関する理解の両面からの理解である。

表紙
日本文化の論点

「クールジャパン」として、ポップカルチャーのACG(アニメ、コミック、ゲーム)による経済効果が、大人たちから熱い注目を浴びている。「陽の当たらない夜の世界」こそ、革新と創造性を生み出してきた。


宇野氏は、「日本独自の発展」を遂げているサブカルチャーを、「夜の世界」と名付け、その存在の大きさを指摘する。そして、「奇跡の復興を遂げ、それゆえに制度疲労を起こし、ゆるやかに壊死しつつある高齢国家日本」を、「昼の世界の姿にすぎない」と述べる。「陽の当たらない夜の世界」こそ、革新と創造性を生み出してきたというのだ。
 国家的にも「クールジャパン」として、ACG(アニメ、コミック、ゲーム)の輸出が重視される今日、生徒にとっての「夜の世界」の存在をわれわれも認識する必要があることは確かだろう。
 後半では、「西洋近代のものとは異なった原理で駆動する新しい世界」の象徴として、AKB48を取り上げる。劇場公演、握手会、選抜総選挙、じゃんけん大会といったシステムの意味を吟味し、資本主義によって人間の想像力が画一化するどころか、欲望が多様化し、変化したと評価する。
 しかし、生徒の想像力、創造力は、本当に育ってきたのか。教育は、従来の文化を伝承するだけでなく、新たな文化を創出する営みでもある。サブカルチャーは、「サブ」という名のとおり、現在の支配的文化に対するたんなる「下位の文化」にとどまる恐れもある。望ましい文化創出のためには、連帯や共同などの教育的価値を伝えるとともに、社会の現状に問題意識を持ち、これに対抗する文化(カウンターカルチャー)の担い手を育成する必要があるのではないか。東日本大震災後、人々の絆や地域の重要性等について、若者の認識は高まっているはずである。ただし、押しつけで文化は育たないことはいうまでもない。


表紙
オタク的想像力のリミット−〈歴史・空間・交流〉から問う

オタクの「小さな物語をデータベース消費する」(東浩紀)想像力と社会的有用感を認めつつ、社会形成者の育成のための目標に沿って、「科学的な見方・考え方」や自己との対話の方法論を教える役割が教育にはある。


 オタク文化がクールジャパンとして脚光を浴びるなか、著者は、興味本位な「オリエンタリズム」を超える正しい理解を求め、コスプレ、鉄道オタク、萌え、格闘ゲーム、腐女子などについて論述する。また、次の文献を収録して著を構成する。「小さな物語をデータベース消費する」とする東浩紀氏の『動物化するポストモダン』、「蛸壺の宇宙の中でつながりを求める」とする北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム』、「個室が都市空間に延長する」とする森川嘉一郎氏の『趣都(アキハバラ)の誕生』。いずれも、オタク文化に、近代を超えるポストモダンの可能性を見いだそうとするものである。
 教育においては、その可能性を受け止めつつ、これまでの「大きな物語」としての歴史学等を彼らに伝えることが求められよう。
 オタクの「想像力」について、辻泉氏は「(私自身が)なぜ鉄道オタクなのか」という問いのもとに、敗戦までの「汽車の時代」を「空想の時代」、高度経済成長期の「電車の時代」を「夢想の時代」、低成長教育の「ポスト電車の時代」を「幻想の時代」、現在の「ポスト鉄道の時代」を「妄想の時代」と分析する。そして、このような「想像力の文化」を組み込んだ新たな社会を構想するよう提唱する。
 宮台真司氏は、オタク・コンテンツが持つ「文脈の無関連化機能」により、「オリエンタリズム」の曲解が乗り越えられるのは時間の問題とする。教育においては、オタクへの興味本位な曲解は払拭した上で、先人の蓄積してきた文化・価値を伝承し、それを生徒の内的世界の「文脈」と関連付けさせ、彼らの想像の壁を日々破らせるようにしたい。


表紙
現代文化を学ぶ人のために全訂新版

 この本は、自己と他者と世界の物語が、シニカルな「裏話」も含めて、社会的現実を「意味の秩序」として成立させると評価しつつ、次のように問題を提起する。「何が疑似か」という基準が立てにくくなった今日では、見せかけが「どういう条件のもとで」通用するのかが問題である。「好みの物語を編集できる」としても、それをそのまま現実化できるわけではない。本書では、この視点のもとに、各著者が、政府推進によるポップカルチャー、人助けと「心理学化」、スポーツイベント、ファッション、観光、恋愛などにおける現代文化の権力性、自己疎外、不自由さ、息苦しさをえぐり出す。


 井上氏は、現代文化を都市文化、消費文化、情報文化としてとらえる。都市文化とは、万博に象徴されるような「見せ物」の文化であり、「欲望喚起装置」として消費文化を形成してきた。百貨店のような魅力的な「見せ物空間」は「見せかけ」であるとともに、流行に遅れたくないとか、差をつけたいとかの「見せかけへの同調と差異」を消費者に呼び起こす。そのための情報操作も欠かせない。政府や企業だけでなく、われわれ自身が、崩れつつある慣例的な社交パターンに頼らず、意識的に「見せかけ」(キャラ)を演じて、自己を「情報化」し、他者を傷つけないように社会生活を成立させなければならないという。
 井上氏は、そこで生まれる自己と他者と世界の物語が、シニカルな「裏話」も含めて、社会的現実を「意味の秩序」として成立させると評価しつつ、次のように問題を提起する。「何が疑似か」という基準が立てにくくなった今日では、見せかけが「どういう条件のもとで」通用するのかが問題である。「好みの物語を編集できる」としても、それをそのまま現実化できるわけではない。
 本書では、この視点のもとに、各著者が、政府推進によるポップカルチャー、人助けと「心理学化」、スポーツイベント、ファッション、観光、恋愛などにおける現代文化の権力性、自己疎外、不自由さ、息苦しさをえぐり出す。
 このような「好みの物語を勝手に編集できる」かのように錯覚させる個人化社会において、自己と社会とをマッチングさせ、自己の人生の物語を適切に編み出せるよう支援する教育は、たやすくはないが、意義深いものと評者は考える。


表紙

映画は社会学する

近年、社会学的思考や想像力に乏しい実証研究が増えていると同書は批判する。社会学の大きな目標は人間や社会の「リアル」に迫ることであり、バーチャルな世界の拡大ともあいまって、そのリアルは事実と等号では結べなくなったという。評者も同感である。我々を翻弄する「小説よりも奇なる事実」に対して、ストーリーという質の良い虚構がもつ「人間的真実」は、感動をもたらし、追求し続けたいという気持ちにさせる。このようにして、細分化された学問領域の隙間を埋めたとき、体系的理解が深まるのだろう。


 同書は社会学の思考法を次の3部に分けて伝える。T「社会学的思考に慣れる」は、典型的かつ根本的なもので、いろんなものに使え、古びない強い思考法、U「社会学の視野を拡げる」は、社会学から多少越境しているが、社会学を豊かにしてきた思考法、そしてVは「現代社会を読み解く社会学」である。さらに各章は、@映画から思考法のもととなるイメージをつかむ、A社会学的思考を原典の引用も入れながら解説する、Bさらなる思考の発展や他の思考法との連関を図る、の3つから構成されている。
 章ごとに20の思考法が挙げられ、いずれも興味深い。とくに、動機の語彙、行為と演技、ラベリング理論、ジェンダー/セクシュアリティ、身体技法、組織と集団、親密性、ダブルバインド、消費社会論、規律訓練と主体化、想像の共同体、リスク社会などの社会学的な思考法は、冷静な判断基準をわれわれに与える。生活指導や進路指導を、現代に生きる生徒と今日の社会の現実に適合したものにするために、同書は有益な示唆を与えるといえよう。
 近年、社会学的思考や想像力に乏しい実証研究が増えていると同書は批判する。社会学の大きな目標は人間や社会の「リアル」に迫ることであり、バーチャルな世界の拡大ともあいまって、そのリアルは事実と等号では結べなくなったという。評者も同感である。我々を翻弄する「小説よりも奇なる事実」に対して、ストーリーという質の良い虚構がもつ「人間的真実」は、感動をもたらし、追求し続けたいという気持ちにさせる。このようにして、細分化された学問領域の隙間を埋めたとき、体系的理解が深まるのだろう。


表紙

ポスト〈カワイイ〉の文化社会学−女子たちの「新たな楽しみ」を探る

 「夏フェス女子」は、幼少期に美術館・博物館訪問やクラシック視聴を経験した者が多いと言う。そして、このような「文化資本の高い女性」が、「夏フェス」での写真写りの良さと「かわいい」をネットで発信しているという。以上の楽しみを、本書は、「心躍ることや心囚われることに尽きない現代人の暮らし」と表現している。
 評者は考える。人には個人として社会人としての成長とは別に、そのこと自体が癒しや楽しみになる時間が大切だ。それが社会における新しい価値や文化の創造につながる。しかし、そこに個人間の格差があるとすれば、能力目標だけでなく、貧しい者にも文化資本を提供するよう考えたい。


 この本は言う。「かわいい」は、古典的な女らしさという意味から、伝統的な規範の圧迫から抜け出して自分らしく生きたいと願う女子たちの希望の表れに変わった。現代の女子たちは、より自由に「かわいい」を楽しんでいる。同書では、いまもなお多様化と洗練化を続ける女子文化を解明するため、ゲーム、ロック、歴女、ハロウィン、メイド、島ガールなどにおける「かわいい」を追求する。
 池田氏は、「かわいい」が氾濫する社会に対する「文化的に未成熟」という批判に反対し、女性の活動領域の拡大など、社会がより多様性を求める時に必要となる感性のーつが 「かわいい」だと言う。従来の「男性的」とされていた領域に、もっと別のセンスや価値観を持ち込む。そのことによって、男性も女性も、ある程度心地よくその領域に関われるようになるというのである。西原氏は、「姫キャラ」を含めた広義のプリンセスについて、三〇代、四〇代の女性が社会貢献活動などによる努力型であったのに対して、一〇代後半から二〇代は、「生まれながらの」自分らしさ体現型だと言う。そこでは、「男性から見られる」という意識から解放され、「女子としての自分」という満足があるというのだ。永田夏来氏は、量的調査の結果から、「夏フェス女子」は、幼少期に美術館・博物館訪問やクラシック視聴を経験した者が多いと言う。そして、このような「文化資本の高い女性」が、「夏フェス」での写真写りの良さと「かわいい」をネットで発信しているという。以上の楽しみを、吉光氏は、「心躍ることや心囚われることに尽きない現代人の暮らし」と表現している。


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仕事なんか生きがいにするな−生きる意味を再び考える

 著者は、「実存的な苦悩」から抜け出て「生きる意味」をつかむことに成功したクライアントの姿を数多く目撃してきた立場から、諦めない限りにおいて、「実存的な問い」には必ずや出口があるものなので、ニヒリスティック(虚無的)な言説に惑わされてはならないと訴える。社会的成功や世間的常識などにとらわれず、俯瞰的にこの世の趨勢や人々の在りようを眺めることができた時、人には必ずや「実存的な問い」が立ち現れてくる。この問いに苦悩することは、他の生き物にはない「人問ならでは」の行為であり、そこにこそ、人間らしい精神の働きが現れているという。
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 働くことこそ生きること、何でもいいから仕事を探せという風潮が根強い。しかし、それでは人生は充実しないばかりか、長時間労働で心身ともに蝕まれてしまうだけだ。泉谷氏は、仕事中心の人生から脱し、新しい生きがいを見つける道しるべとして、会社、お金、世の中、他人、出世、生活「のために」生きるのをやめ、心のおもむくままに日常を遊ぶよう勧める。評者は、教職に就く者にとっては、悩ましい本だと思う。しかし、社会的不適応を起こした子どもたちのほうが、「普通の人間」より深い生き方をしていると感じることがあるが、そのヒントが、この本から見つかるかもしれない。
 泉谷氏は「生きる意味を問う」という「実存的な問い」を、最も人間的な行為とする。社会的成功や世間的常識などにとらわれず、俯瞰的にこの世の趨勢や人々の在りようを眺めることができた時、人には必ずやこのような「実存的な問い」が立ち現れてくるとし、この問いに苦悩することは、他の生き物にはない「人問ならでは」の行為であり、そこにこそ、人間らしい精神の働きが現れていると言う。
 氏は、「生きる意味」を問うことなんて無駄なことだというシニカルな言説によって、「実存的な苦悩」を抱いている人たちは、ますます困惑させられていると言う。氏は、「実存的な苦悩」から抜け出て「生きる意味」をつかむことに成功したクライアントの姿を数多く目撃してきた立場から、諦めない限りにおいて、「実存的な問い」には必ずや出口があるものなので、 このようなニヒリスティック(虚無的)な言説に惑わされてはならないと訴える。
 社会的成功や世間的常識などにとらわれず、俯瞰的にこの世の趨勢や人々の在りようを眺めることができた時、人には必ずや「実存的な問い」が立ち現れてくる。この問いに苦悩することは、他の生き物にはない「人問ならでは」の行為であり、そこにこそ、人間らしい精神の働きが現れているというのだ。
 また、青年期の危機は、人が社会的存がとなっていこうとする出発点での様々な苦悩、つまり、職業選択や家庭を持とうとすることなど「社会的自己実現」の悩みを指すものだが、中年期の危機の方は、ある程度社会的存在としての役割を果たし、人生の後半に移りゆく地点で湧き上がってくる静かで深い問い、すなわち、「私は果たして私らしく生きてきただろうか?」といった、社会的存在を超えた一個の人間存在としての「実存的な問い」に向き合う苦悩のことだと言う。青年期には重要に思えた「社会的」とか「自己」といったものが、必ずしも真の幸せにはつながらない「執着」の一種に過ぎなかったことを知り、一人の人間として「生きる意味」を問い始めるとし、また、今や青年期においても、そのような「実存的問い」が見られると言う。
 氏は、イソップ物語のアリとキリギリスの例を示す。わが国では、サブカルチャーにおいては世界をリードする勢いを持っているが、カルチャーそのものについては十分ではないとし、キリギリスのように、憧れるに耐える文化を生み出すことが、現代の虚無に押し潰されないために求められていると言う。
 評者は考える。泉谷氏の言うような文化を求める子どもたちは、少ないだろう。多くの子どもたちはサブカルに走り、教師もそれに対応しなければならない。文化は押しつけでは育たないからだ。しかし、個に応じた指導を考えるならば、生きにくさを感じながらも「実存的問い」や文化を追い求めるタイプの子どもたちに対しても、イソップ物語のアリのような「未来」だけでなく、キリギリスのような「今」の充実のための支援を検討する必要がある。

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社会にとって趣味とはなにか−文化社会学の方法規準

 オタク、サブカルなどの趣味が、他者との差別化だけでなく、逆に紐帯としても機能していることは事実であろう。実際、クラブ通いの友人を得た地方出身の若者の東京定着率が高いなどの効果が他の調査で明らかにされている。だが、階級的な差別化とは異なる独自な自己の確立という「個人化」と、それに加えての「異質な他者との交流と共有」という「社会化」こそ、教育が追求すべき価値といえよう。そのとき、オタク、サブカルを含めた生徒たちの趣味に注目し、干渉することなく、機会をとらえて望ましい個人化と社会化の契機になるよう働きかけることが、教師にとって重要といえよう。
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 この本は、ブルデューの文化資本(学歴や文化的素養)の概念によらず、趣味がもたらすテイスト(センスの良さ、悪さ)によって差別化され、階級が再生産されるという彼の見解について、量的調査も交えて批判的に再検討する。たとえば、同書がテーマとする「平成時代の若者文化」としてのオタク、サブカル等においては、過去の「テイスト論」は成り立たないという。
 そのための基本的な理論的・方法的視座を提供するため、次の点について論じていく。「文学は死んだ」と文学者たちによって繰り返される言説の潮流のなかで、いかに揶揄されようとも「文学」はテイストを証明する保証書として生きてしまっていること。「他者との差異化・差別化・卓越化」といった論点が、ユニクロなどのファストファッションにおいて無効化されたのかなど、モード、卓越化の典型的な手段として言及され続けてきたファッションにこそ、卓越化理論の社会理論としての性能を見きわめる鍵があること。ときに他者との差別化をきわめていると言われ、またときに他者との差異化に関心がないとされる「おたく」という自己執行的・他者執行的なカテゴリーの生成期に注意を向けた場合、「おたく」は差異化・卓越化を目指し知を蓄積・披瀝する近代の極北ともいえるし、一方で異質な他者との差異化に関心を持たない内向性をきわめた存在として、ずいぶんと便利にメディアや批評において使われ続けてきたカテゴリーであるということ。最終章で北田は、差異化の論理そのものを失効させるという点で共通しつっも、「二次創作」にコミットする男性オタクと女性オタク(腐女子)を、作品の読み方(受容姿勢)という観点から分類したうえで、両方が同じ「オタク界」に位置するとしても、ジェンダー規範空間という観点から見た場合、いかに同床異夢の状態にあるか、を自認とは別の角度から(操作的に定義された類型にもとづき)問題化している。差異化・卓越化の論理が消失したともいえる界における男女差は何を意味するのか。ここにおいても、ジェンダーという変数の重要性が確認される。
 北田氏は、腐女子(BL-男性同性愛の漫画や小説を好む女性)をフェミニズムの表れととらえ、「きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に異議を申し立てている」とする。そして、「アニメもBLもどうでもいい」という考えに対して、政治的連帯・社会的な関係性構築の資源の存在から目を背けることになるという危険性を指摘する。

社会貢献・社会変革したい若者たち


若者に対して、地域は「愛郷心」を、社会は「社会参加」を求めてきた。しかし、それが一方的なものであると、社会貢献・社会変革している若者とは断絶を生んでしまう。若者理解の上で、地域や社会に囲い込むのではない「社会開放型」の参加機会の提供が必要である。
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社会を変えたい人のためのソーシャルビジネス入門

 ネット社会において将来、生徒が利益を得る手段が拡大していることに無頓着であってはいけないといえよう。その上で、本書が提唱する「新しい社会貢献」について、評者は次のように考える。このような手の届く範囲で社会貢献したいという若者の志を大切に受け止めたい。もう一方で、職業全般が社会貢献につながるという実態と認識も広げていきたいものだ。

 本書では「フルタイムでNPOを事業として経営する」ための具体的方法が書かれている。駒崎氏は、「社会起業家」という自分を説明する言葉があとからくっついてきてくれたと言い、株式会社、社団法人、財団法人などの区分にはこだわっていない。
 彼は2004年にNPOフローレンスを設立し、日本初の「共済型・訪問型病児保育」サービスを開始した。10年後に待機児童問題解決のため「おうち保育園」を創設し、これが後に「小規模認可保育所」として国策に採用された。本書では、「国に事業をパクってもらい、社会変革を行う方法」として、視察を受け入れ、官僚に「肝」と費用対効果を伝え、政策化につなげるよう助言する。また、「現実はもっと厳しいよ」と批判する「ドリームキラー」に対しては、「貴重な意見ありがとう。でもまあ、俺はやるけどね」という「スルー力」の必要を説くとともに、一割くらいは「よい批判」があるので、「なんで?」と聞き返し、彼らのライフスタイルを推察し、ターゲットとすべき人物像を発見するという、いわば「生きる力」の具体的発揮方法を示している。
 また、このような具体的方法をネット上でも公開している。たとえば、「本格的な準備をしよう(情報編)」については次のとおりである。メンバーのメールはGメール、チームの予定表はグーグルカレンダー、ファイルの共有はグーグルやドロップボックス、サイボウズ、ハングアウト、顧客管理システムはクラウド型のセールスフォースを利用して、グループウェアは無料で構築する。また、対外的な情報発信は、まずはブログとフェイスブック、ツイッターの3つを使う。さまざまな活動状況を発信することで、チーム内、さらにはステークホルダー(支援してくれる個人や財団・企業など)への活動報告になる。また、応援してくれる人を増やす効果もある。たまたま読んでくれた人が、「頑張っている人がいるんだ。私も手伝いたいな」と思ってくれるきっかけづくりになるからだ。
 さらに、このように日々の活動報告が蓄積されることで新しくかかわってくれた人には、その団体の歴史や、メンバーたちの人となりを知ってもらえるツールとなる。そのほか、ブログやフェイスブック、ツイッターの更新をルーティンにすることで、将来、ウェブサイトをつくった時に、スムーズに移行しやすいというメリットもある。経営者個人が情報発信することで、自分自身を知ってもらういい機会になる。団体そのものの情報発信は学生インターンや社会人プロボノ(専門的技能をもったボランティア)にまかせる。ブログなどの更新は遠隔でもできるので、彼らにまかせやすい仕事だといえる。
 そして、サービスインの前にはウェブサイトをスタートさせる。これがないと、利用者に、どこか頼りない団体との印象を与えかねない。助成金などでお金が入ったころ、30万〜50万円くらいでつくれるものにする。あるいは社会人プロボノにお願いして、タダ同然でつくってもらえるのならば、それに越したことはない。NPOやソーシャルビジネスにかぎらず、起業の鉄則は、最初は小さく、どんどん大きく育てていく。いかにお金をかけないで、いいものをつくっていけるかを考えるのが重要だ。なお、ウェブサイトをつくっても、フェイスブックとツイッターは生かしておこう。一方、ブログはウェブサイトに移行させるのがいいだろうと言う。ネット社会において将来、生徒が利益を得る手段が拡大していることに無頓着であってはいけないといえよう。


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イノベーションを起こす組織−革新的サービス成功の本質

 本書は、イノベーションを起こすためには、「知識の創造と実践」が必要であり、そのために、横の関係(現場リーダーの善い目的や思いを起点とした共創の場づくり)と縦の関係(目的や思いを実現する集合的な実践力)の組み合わせが、組織をつくり動かしていくキーコンセプトになると言う。従来の経営学でいわれてきたような、市場や業界でのポジション取りによる差別化や、組織資源の最大活用に基づく効率化というようなアプローチでは、イノベーションは起こせないとし、対立や葛藤を「あれかこれか」の二項対立ではなく、状況に応じて「あれもこれも」の二項動態のチャンスととらえて乗り越えるよう提唱する。評者は考える。これをリーダーシップとして、異なる価値観をもつメンバーが共存する「縦の関係」すなわち組織・集団で目的を共有し、実現させるための意欲や能力はどう養えばよいのか。「管理職になりたくない」という若者や壮年が増えているなかで、組織的イノベーションのための協働を自己決定する「個人」の育成を、今後の「社会形成者」育成の重要課題と考えたい。


 著者は、「知創リーダーシップ」について次のように述べている。実践知とは、共通善(common good)や徳(virtue)の価値基準をもって、個別のその都度の文脈のただなかで、最善の判断ができる実践的な知性のことである。より具体的にいえば、個別具体の文脈でちょうどいい(just right)解を見つけること、動きながら考え抜くこと、文脈に即した判断(contextual judgement)と適時絶妙なバランス(timely balancing)ができること、などである。そのためには、次の6つの能力が必要だと言う。@善い目的をつくる能力:共通善や徳の価値基準に基づいて「何が善いことなのか」を見極めた目的をつくることができる能力。達成不可能な目的や強制的な目的、金銭的な目的ではなく、夢や理想の実現に向かう目的、卓越性を追求する目的であること。A直観する能力:現実をありのままに観る能力。人には、見たいものしか見ない、見たくないものは見ない、という傾向があるが、そういう傾向があることを知ったうえで、先入観や思い込みを排除して、五感を駆使しながら、1回しか起きない現場・現物・現実をありのままに観ること。B場をつくる能力:新たな知を創る場をつくること。適材適所の人材をタイムリーに見い出し配置し、共感・共振・共鳴の場をつくること。C本質を物語る能力:起承転結や英雄物語の流れに沿って、他者の記憶に残り、他者の行動を変容させるようなストーリーを語ること。たとえやレトリックを使って、ビジョンやコンセプトを他者のコンテクストに合うように伝える能力。D影響力を使い分ける能力:ビジョンやコンセプトを実現するために、他者への影響力を使い分けて他者を動かす能力。状況や文脈に合わせて、ハードな力(外的な動機で他者を従わせる力)、ソフトな力(内的な動機で他者を従わせる力)とスマートな力(従っているという意識を持たせずに従わせる力)を使い分けること。E組織する能力:@からDの能力を伝承し、人財を育成する能力。 あらゆる人がこれらの能力を持つようにして、すべてのレベルに自律分散しているフラクタル型(相似形)の組織をつくること。


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SDGsの基礎

 持続可能な発展に関心を示す若者が増えつつある。  同書は、日本における経営哲学の代表例として、近江商人の「三方よし」を挙げる。「買い手が満足し、売り手が満足するというのは、商売として当然のこと。世間(社会)に満足、つまり、貢献できてこそよい商売」という、自らの利益のみを追求することをよしとせず、社会の幸せを願う「三方よし」の精神は、多くの企業にとって経営理念の根幹になっているというのだ。そして、「三方よし」の理念を時間的にも、空間的にも広げたものとしてSDGsをとらえ、たとえば、売り手と買い手だけではなくサプライチェーン全体が満足することや、地球環境全体、さらには、未来の社会を担う将来世代の満足までを視野に入れるよう提唱する。
 評者は、就職や起業において、自らの職業が、人類や地球の存続にも貢献するという夢のある職業観を持てる若者は、一部のエリートに限られてしまうのではないかと危惧する。格差の拡大と不正の横行のなか、多くの若者は、仕事に夢を持てずにいるように思える。そこで脱落した者に対しては、個人化社会では、「それも自己決定なのだから自己責任」と断じられる。そこでは、「誰一人取り残さない」という理念は理想論にすぎないといえよう。若者が自らの存在の社会的意義を確認し、これに基づいた自己決定ができるような社会的視野の獲得を重視したい。


 2015年9月にニューヨークの国連本部において、「国連持続可能な開発サミット」が開催され、「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択された。この目標が17のゴールと169のターゲットからなる、持続可能な開発目標(SDGs)である。SDGsは「誰一人取り残さない」という理念のもと、世界の課題を網羅的にとりあげている。
 同書は、これについて、「とりわけ企業で、経営の中枢に据えることが想定されている」とし、社会的責任としての取組みのみならず、社会課題を収益事業として取組む「本業化」も期待されているとしている。そして、健康・水・エネルギー・まちづくり・働きがい・ジェンダー等の「17のゴール」に関して、計画最終年2030年の望ましい未来はどのようなものか、なぜSDGsは新事業の開発に役立つのか、新たな広報・コミュニケーションとしてSDGsをどう活用すべきかなどについて述べている。
 同書は、日本における経営哲学の代表例として、近江商人の「三方よし」を挙げる。「買い手が満足し、売り手が満足するというのは、商売として当然のこと。世間(社会)に満足、つまり、貢献できてこそよい商売」という、自らの利益のみを追求することをよしとせず、社会の幸せを願う「三方よし」の精神は、多くの企業にとって経営理念の根幹になっているというのだ。そして、「三方よし」の理念を時間的にも、空間的にも広げたものとしてSDGsをとらえ、たとえば、売り手と買い手だけではなくサプライチェーン全体が満足することや、地球環境全体、さらには、未来の社会を担う将来世代の満足までを視野に入れるよう提唱する。
 ここで「新事業の開発」とは、気候変動、健康、教育、食料など、地球規模で広範な社会課題に対し、自社の経営資源を活用した解決策を考えることで、新たな事業の構想に役立つということ、「企業価値の向上」とは、金融や投資の側面でも、企業が環境や社会の課題にどう対応しているかが重視されるようになっており、SDGsに取り組むことで、企業価値の向上に結びつくということ、「ステークホルダーとの関係強化」とは、SDGsと経営上の優先課題を統合させる企業は、顧客・従業員・その他ステークホルダーとの協働を強化できるということだと説明される。
 同書は、企業の公的役割を高らかに謳う。市民社会としても、社会課題の解決や、より良い社会の構築は公的セクターの役割であるという先入観を捨て、「人と社会を根本か
ら支えている企業もある」という観点から広くパートナーシップを組むのが得策と言うのである。
 そして、SDGsのような長期的な取り組みでは、次世代を担う若者に期待が集まりやすいとし、未来のある若者に対して、シニアの社会を変えた成功体験を提示するよう主張する。一見達成が難しそうな目標でもくじけずに社会的な努力が継続されるようにするには、そうした成功体験と希望を次世代にきちんと伝えるのが何より大事であるというのだ。そして、将来の幸福度を支える何か良い智慧や制度や社会を、今の私たちは残す必要があるのではないかと訴える。

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