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若者文化研究所は若者の文化・キャリア・支援を専門とする研究所です。

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昔の若者論CONCEPT

昔の若者論のトレンド

    若者文化研究所 西村美東士


 「今の若者はたいやき君型、頭から尾まで過保護のアンコがギッシリ」と評されたのが、1976年(日本生産性本部「新入社員意識調査」)。「今の若者は」という言葉は、古代エジプトにも見られると言うから、あまり当てにならない言葉と言えよう。
 ただ、私の実感では、大人に「ちゃんと指導してほしい」という若者が増えているように思う。
西村美東士「若手社員育成の課題と方法−『組織の中で個性を発揮する人材』に育てるには」
 ここでは、「タイムマシン」を楽しみながら吟味してみたいと思う。

消費傾向

今はなき渋谷東急百貨店東横店の民間教育産業東急BE
1988年3月西村美東士「個としての主張を援助するコミュニティ志向の新しい民間教育事業−東急クリエイティブライフセミナー渋谷BE」
ロフトが登場したころのトレンドを見てみよう。
1989年4月西村美東士「イチ(市)とクラ(蔵)によるモノの拠点」

ディスコ


 1980年代に入ると、マハラジャなどができて、ドレスコードにより、男性はスーツ着用になり、女性客も増えた。しかし、ここで振り返りたいのはその前の70年代ステップディスコである。怖いけれどドキドキできる空間だった。
 ステップディスコ終盤の77年の「サタデー・ナイト・フィーバー」では、主人公のジョン・トラボルタは、ペンキ屋で働いている若者だった。日本でも、当時の「勤労青年」がジーパンで踊りに来ていた。女子は、ロングスカートの突っ張りが多かったように思う。(笑)
 私は、日本で初めて社会教育施設(青年の家)にディスコを導入し、合宿イベントを企画・担当した。合宿形態で若手男女が集まり、1泊2日で踊り通すなどというハレの日の体験は、20代の私にとっても「めくるめくような」体験だった。今の若者にも、通用する楽しさだと思う。
 当時の私の報告を提示しておきたい。

西村美東士「70年代ディスコ」報告

昔のパソコン少年として



表紙
1987年4月西村美東士「現代都市青年と情報−ヤングアダルト情報サービスの提唱」、高橋勇悦編『青年そして都市・空間・情報』恒星社厚生閣、pp.115-156

 1981年9月、NECPC-8801が発表される。  私は、ベーシックによるゲーム作り、そうして、パソコン通信にはまった。秋葉原の電気街にいそいそと通っては、当時はオプションであった「第2水準漢字ROM」を安く買って悦に入ったりしていたものだ。  そのころ、今でも所属する「青少年研究会」に、社会学の先生方と初めての本を書いた。社会教育の視点から若者のパソコン文化について書いたのは、わが国では初めてだった。

 情報に「窒息」しつつある当時の都市青年にとって、「息を吹きかえす」ことのできる情報とは何なのか。彼らの情報化不適応に対して、情報過多の中でのあらたな情報提供は、しかもごくフォーマルな公的機能としてのそれは、どのようにすれば意味あるものになるのかという問題を提起した。

若者論で変わったこと、変わらないこと




 「青少年問題に関する文献集」に収録した文献のうち、私が要旨作成を担当した1990年から2004年3月までに発行された「青少年教育・対策」文献の要旨等について、青少年の社会化支援に関するキーワードが出現した文献を抽出し、発行年による量的変化等について検討した。
 検討の結果、文献の中で語られてきたこと、語られなくなったこと、すなわち「不易と流行」ともいうべき傾向を見ることができた。1990年代と2000年代(2004年3月まで)に出現率が増減したキーワードの結果は次図のとおりである。




青少年の社会化に関するキーワード出現率の変遷
2007/3 西村美東士『現代青少年に関わる諸問題とその支援理念の変遷−社会化をめぐる青少年問題文献分析』、科学研究費基盤研究(C)(課題番号17530588)研究成果報告書(研究代表者)、A4版、331p

「同じ釜の飯を食う」ことの意義は変わらないはず




 私は、以前勤めていた青年の家の魅力について、次のように述べたことがある。
 「メシ」も「フロ」も「ネル」も、生活の臭いの強いことがらです。これを仲間といっしょにすることは、「生活をともにしている」という暖かい実感をもつことにつながります。
1989年10月西村美東士「みんなでメシ・フロ・ネル」、「団体・グループの仲間づくりの演出」より、福留強編「生涯学遊ネットワーク」日常出版、pp.70-76
 ここで書いた団体宿泊の牧歌的な大らかさと郷愁は、今や復活が難しくなってきた。それは「若衆宿」以来の初めての断絶であり、なくなって助かったと思う若者もいるとは思うが、多くの若者にとっては気の毒なことである。
 ただ、次の論文で主張した集団宿泊機能については、新型コロナウィルスの脅威のもとでも、個人化社会における社会教育の魅力として、何とか引き継いでいきたい。

2003年4月西村美東士「青少年教育施設の活動・経営をめぐる問題」、鈴木眞理編『生涯学習の計画・施設論』学文社、pp.153-167

 新型コロナウィルスの脅威のなか、社会的距離を保つため、このような集団宿泊活動が、大して存続のための努力もせずに簡単に葬り去るとしたら、これは若者にとっての教育の大切な思い出を引きちぎる行為にもなりかねない。このような「手抜き」が、平気で見過ごされる気配を感じる。教育には「余計なこと」のように見えて、個人にとっては大切なことがことが多い。
 ちなみにこれに似た「手抜き」が、「個人情報の保護」の関連で見いだされる。「個人情報の保護」といえば、参加者同士のつながりにはまったく手を付けずにイベントをしていれば責められることはない。なんとかならないのかと思う。若者同士のつながりや絆に結びつかない無機質な教育がはびこりそうで怖い。
 あとで述べるように、「友だちとの関係はあっさりしていて互いに深入りしない」を否定する「濃密志向」型若者がいまだ半数程度存在している。集団宿泊という出会いの社会教育との出会いをそういう彼らが失うことは、悲劇といえる。「同じ釜の飯を食う」ことの意義は変わらない。そして、肯定派の「淡泊志向」型若者にとって、以前の世代の若者たちが体験した「若衆宿」以来の集団宿泊という「通過儀礼」を受けなくなることは、彼ら自身は自覚しないで「楽でいい」と思うかもしれないが、じつは楽しく重要な社会化チャンスの一つを失うことにもなりかねないと危惧する。

「昔の若者は」だったら、言えることがある




「この20年に若者の意識、生活、考え方はどう変化したか」

 若者文化研究所 西村美東士

 2014年2月、全日本社会教育連合会企画・日本青年館 『社会教育』、69巻2号、pp.26-33

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属性
 このグラフから、昔(1990年代)の若者は、今の若者より、さほど、友だちとの関係が濃密だったとは言えない。だが、第一に「友達と意見が合わなかったときには、納得がいくまで話し合いをする」という交渉型、第二に「どんな場面でも自分らしさを貫くことが大切」という貫徹志向が強かったということは確かに言えそうだ。そういう当時の若者が、現在の若者たちの上司として悪戦苦闘していると思うと、「大変だなあ」と思う。



サーチしたら「昔の若者」が今でも活躍していた!




私が刺激を受けた昔の若者活動のキーパーソンが、今でも地域のキーパーソンだった!


東京都武蔵野青年の家時代の三鷹青年団体連絡協議会の川井信良さん
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今でも地域をベースにした本業と市民活動をやっていた!
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徳島大学時代の川田春夫さん
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今でもコミュニティメディアでまちづくり・文化活動の発信をしていた!
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懐かしい方々です。たくさんの大切なことを学ばせてもらいました。
ぜひまた取材させてください。

パソコン通信の無名の先駆者




関本章(仮名・37歳・公務員)という名前でインタビューを受けてくれたSさん。
アスキー社のパソコン通信で、環境問題のシグオペ(Special Interest Group=シグの世話人)を務めていた。私にパソコン通信の手ほどき(秋葉原への買い出し、通信環境セッティング)をしてくれた友達である。3年ほど前に亡くなってしまった。
いまのインターネットのコンテンツ作りにとっても示唆に富む「ものの見方、考え方」を、30年前のパソコン通信のユーザーが示してくれている。
そして、今や50代、60代、70代の元パソコン通信ユーザーの心を表わしてくれているように思う。

倉内史郎、鈴木眞理、西村美東士、藤岡英雄『生涯学習の生態学成人学習の個別化状況を探る』、野間教育研究所第37集、1993年3月

117ページから

つづく


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